夕張岳の花・デビューの歴史
夕張岳の花・デビューの歴史
野坂志朗(前… 愛知教育大学教授)
花の名山夕張岳・・・田中澄江著「花の百名山」が世に出て以来、研究者や一部の野草愛好家ばかりではなく、登山よりも花見を目的にこの山に登る人が増加した。地元は人口減少をたどる昨今、近年は地元以外の登山者が圧倒的に多い。
夕張岳の登山コースは、東麓の金山からの金山コースと西麓の夕張市鹿島からの夕張コースがあり、大正年間~昭和初期(1910から1920年代) では金山コースが主流の様であった。金山コースは、空知川の支流トナシベツ川を遡行し、途中から右に分岐する工バナオマンドシユベツ川(通称エバナ沢) に入って通称「吹き通し」に達するか、またはトナシベツ川を源流部までたどって樺の平~吹き通し上部の夕張コースとの合流部に達するこ通りの沢コースと、エパナ沢分岐の北側から尾根に登って、夕張岳を経て樺の平に達する尾根コースがあった様で、現今では、専ら尾根コースが利用されている様である。当時の夕張側コースは、夕張川の鹿島地区のはずれから支流磯次郎沢をつめることから始まって、片道2泊3日を要したとの古老の話(昭和29年、1954年) であった。現在では、札幌圏からであれば、早朝スタートで充分日帰り可能であることはご承知の通りである。
さて、夕張岳のフロラおよび植生について総合的な研究成果を最初に公表した研究者は、当時北海道帝国大学農学部助手を勤めて居られた西田彰三氏であった。西田氏は、夕張山地の北は富良野西岳(西国論文では富良野岳と記されているが、十勝岳連山の富良野岳のことではない)から芦別岳・鉢盛山・小夕張岳・夕張岳と、直線距離約60KMの山群を、現今では夏の縦走は殆ど不可能な行程なので、大変な御苦労をされたことと思われる。熊用心ということで、調査隊には腕ききのハンターが加わっていたとも聞いている。
西田氏論文(1918-1919)は札幌博物学会報(以下、札博報と略す)第7巻71-92P(1918年)及び138-177P(1919年)に登載され、その後篇の部に夕張岳産種子植物四七三種八変種を発表した。その後、多くの研究者によって、新種・新変種等の夕張山地産植物の記載発表や未記録植物の追加等がなされ、1974年には、夕張岳産種子植物は535種1亜種10変種11品種が記録されている(野坂、1974)。